
榊原康政って何をした人?

榊原康政について分かりやすく教えてほしい!
*この記事はそんな方に向けた記事です

こんにちは!
歴史マニアのりょーすけです!
今回は、天下人である徳川家康を支えた側近、榊原康政(さかきばら やすまさ)について履歴書風に解説しました!
歴史について少しでも興味をもってもらえるようにユーモアたっぷりに解説したの
で楽しんでご覧ください!
履歴書の項目
・基本情報
・戦歴
・長所
・自己PR
・苦労したこと、それにどのように立ち向かったか
・入社後はどのように活躍できるのか
基本情報
氏名: 榊原 康政 (さかきばら やすまさ)
生年月日: 永禄3年 (1560年) 生
現住所: 徳川家臣団
肩書:徳川四天王の一人
戦歴
* 15歳頃~: 徳川家康公に小姓(こしょう)として仕える。
* 1572年(元亀3年): 三方ヶ原の戦いにて、殿(家康公)の窮地を救う
* 1582年(天正10年): 本能寺の変後の「伊賀越え」において、殿の護衛を務める。
* 1584年(天正12年): 小牧・長久手の戦いにおいて、池田恒興隊を撃破。武功を立てる。
* 1590年(天正18年): 小田原征伐に参加。
* 1600年(慶長5年): 関ヶ原の戦いにおいて、東軍の主力として活躍。
長所
「 冷静沈着なる分析力と的確な判断力」
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)において、我々徳川軍は武田信玄(たけだしんげん)という強大な敵との圧倒的な兵力差に打ちひしがれ、壊滅的な敗北を喫しました。
若輩の身でありながら、私は眼前の惨状に絶望する暇もなく、まず「殿の現在地と安否」「残存兵力」「敵の追撃状況」といった、極めて感情的になりやすい状況下で、事実を冷静に分析することに徹しました。
これにより、殿の撤退経路確保と、追撃を最小限に抑えるための的確な判断を下すことで、殿の撤退をサポートしました。
この経験から、いかに困難な状況でも、感情に流されず客観的な情報に基づいた判断が、最良の結果を生むと確信しております。
現代のビジネスにおける緊急時の意思決定や、複雑な市場分析においても、この能力は必ずや貴社のお役に立てると存じます。
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「伊賀越え」における決死の護衛
本能寺の変という未曽有の混乱の中、殿は敵地(明智軍)に取り残されるという絶体絶命の危機に瀕しました。
この時、わたくしは「いかに殿を無事に本領へお連れするか」という一点に集中いたしました。
道なき道を駆け、時に敵の追撃をかわし、時に地元民の協力を得るなど、あらゆる知恵と武力を行使しました。
この時の経験から、「明確な目標設定と、その達成のためにはあらゆる手段を尽くす覚悟」が、困難を打ち破る原動力となることを体得いたしました。
困難に直面した際には、感情に流されず、冷静に状況を分析し、目標を明確にし、達成のためにあらゆる手段を講じ、そして何よりも「決して諦めない心」を持って立ち向かってまいりました。
苦労したこと、それにどのように立ち向かったか
小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉という天下人との直接対決となり、局地的には劣勢に立たされる場面もございました。
特に、味方の主力である本多忠勝が孤立した際には、私も含め多くの者が死を覚悟いたしました。
しかし、私は決して諦めることなく、限られた兵力の中で、状況打開のための粘り強い指揮と、時に敵との駆け引きを行いました。
結果として、豊臣軍の別動隊(池田恒興・森長可)を撃破し、勝利に貢献することができました。
入社後はどのように活躍できるのか
「組織マネジメントと人材育成」
長年、徳川家という巨大な組織の一員として、また一国一城の主として、多くの部下を率いてまいりました。
部下の適性を見抜き、それぞれの能力を最大限に引き出し、組織全体の生産性を向上させる人材マネジメント能力は、貴社の組織強化に貢献できると存じます。
特に、若手の育成においては、厳しさの中に愛情を持った指導で、次世代を担う人材を育成できると自負しております。
投稿者から一言

最後までご覧いただきありがとうございます!
今回の記事を読んで「面白い!」「勉強になる!」と、思っていただけたら嬉しいです。
これからも「履歴書風」に投稿していくのでぜひご覧ください!
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