【戦国時代】九州の武将と(大友・島津・龍造寺)戦い

日本史 戦国武将

 

九州の歴史を知りたい

九州の武将って誰がいるの?

*この記事はそんな方に向けて投稿しました

こんにちは!

 

歴史オタクのりょーすけです!

 

突然ですが、九州の三英傑って誰のことか分かりますか?

 

あくまで僕の意見ですが九州の武将ってあまりライトアップされていない気がします、、、

 

なので今回はお城ではなく九州の三英傑について簡単に解説しました!

大友宗麟(おおともそうりん)

キリシタン大名という異名をもつ九州の覇者、大友宗麟

彼は一切キリスト教に関心はなく、ポルトガルとの南蛮貿易から得られる莫大な富が狙いでした

そのため、ポルトガルとの貿易以前から、大友氏は明や朝鮮とも交易をしており、貿易で国力を高めていました

家督を得る経緯

本来であれば、宗麟は大友氏の長男であったため、すんなり家督が譲られるはずが、父が末っ子の塩市丸(しおいちまる)に家督を譲ろうとしていました

それがきっかけで家臣団の中で派閥抗争が起こり「二階崩れの変」によって家督は宗麟に引き継いだのです

その後、着実に北九州の勢力を拡大させ、守護職九州探題の称号を得ました

しかし、島津軍との「高城・耳川の戦い」で大敗してからは徐々に衰退することとなり、3強の座から降りることになりました

高城・耳川の戦い(たかじょう・みみかわのたたかい) 

1578年に九州の日向国(現在の宮崎県)で起きた、大友氏と島津氏の間の大規模な戦いです

戦国時代の九州の勢力図を大きく塗り替える転機となりました

背景 

大友宗麟(おおとも そうりん)は北九州の大大名で、キリスト教に傾倒していたことでも知られます

島津義久(しまづ よしひさ)は南九州の覇者として勢力を拡大していました。

日向国(ひゅうがのくに=現在の宮崎県)の伊東氏が島津に敗れ、大友氏に助けを求めたことで、大友氏が日向に出兵し、戦いが始まります

 戦いの経過 

1.大友軍の侵攻

大友宗麟は3万〜4万の大軍を率いて日向に侵攻

島津方の城を次々と攻略し、高城(たかじょう)を包囲します

2.島津軍の反撃

島津義久(よしひさ)は弟・島津義久(よしひさ)を中心に反撃を開始。 

島津軍は陽動作戦と伏兵戦術を駆使し、大友軍を誘い出します 

3.耳川での決戦

大友軍が追撃に出たところを、島津軍が三方から包囲・奇襲 

大友軍は大混乱に陥り、壊滅的な敗北を喫しました

この戦いで大友氏は主力を失い、以後は防戦一方に 

島津氏は九州統一に向けて大きく前進しました 

名前の由来 

高城川原(たかじょうがわら)が主戦場 

「耳川の戦い」という名称は、敗走した大友軍が耳川で壊滅したことに由来します

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

大内義隆を主君にもつ龍造寺

【1分で解説】大内義隆(おおうち よしたか)=戦国時代の西国を代表する戦国大名。父・大内義興の跡を継ぎ、周防・長門・石見・筑前などを支配し、明との貿易を独占して大内文化を開花させた。文治政治と公家文化を重んじたが、軍事軽視が家臣の不満を招き、1551年、重臣・陶晴賢の謀反(大寧寺の変)により自害し、大内氏は滅亡した

龍造寺隆信は7歳で出家し、家督相続から退いていた

しかし、近隣の少弐氏(しょうにし)により一族の多くが謀殺され、20歳で龍造寺氏の頭領となった

ちなみに、隆信の「隆」は大内義隆からもらったものだ

陶晴賢(すえはるたか)によって大内義隆は倒されたが、毛利元就(もうりもとなり)によって陶晴賢は滅ぼされた

その後、龍造寺隆信毛利元就と同盟を組み、仇敵の少弐氏を滅ぼした

その後、大友宗麟による侵略があったが、重臣の鍋島信昌(なべしまのぶまさ)と共に夜襲をかけて圧勝

大友宗麟と有利な条件で和睦を結んだ後、勢いに乗った隆信は勢力を拡大し「九州の3強」の座に上り詰めた

しかし、1584年に

「沖田畷(おきたなわて)の戦い」

島津義久が得意とする「釣りの野伏」の戦術により命を落とした

沖田畷の戦い

(龍造寺軍)2万5000vs(島津・有馬連合軍)8千

島津軍の先鋒隊と龍造寺軍が激突し、数で劣る島津軍は早々に敗走

龍造寺軍は追い打ちをかけるがこれが罠だった

畷(なわて)とは田んぼのあぜ道のことで、道が狭い上に一面が湿地帯であったことから龍造寺軍は渋滞していた

そこで待ち構えていた有馬・島津連合軍による総攻撃を加えられ、龍造寺軍は壊滅

この戦いで隆信は首を取られた

島津義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)

島津義久(兄)・義弘(弟)は龍造寺大友を差し置いて九州の覇者へと君臨

九州統一まであと一歩のところで豊臣秀吉の討伐にあい、大きく南に押し返された

義久の弟の義弘は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では「鬼石曼子(グイシーマンズ)」いわゆる鬼島津と言われ恐れられた

*「石曼子」とは中国語で、日本語では「島津」を指す

また、島津義弘といえば「関ヶ原の戦い」での「島津の退き口」が有名である

兵数1500の島津軍は、両軍が交戦状態に入っても参戦せず傍観(ぼうかん)していた

東軍に押され石田三成(いしだみつなり)小西行長(こにしゆきなが)が伊吹山方向へ敗走し始め、ようやく全軍で敵の正面突破をして戦線離脱をした

敵の意表を突く作戦(島津の退き口)ではあったが、井伊直政(いいなおまさ)の追撃を受け、自国へ帰った頃には1500だった兵がわずか80人程であったという

投稿者から一言

 

最後までご覧いただきありがとうございます

 

九州の歴史について知っていただけましたか?

 

これからも戦国武将とお城をメインに投稿していくのでぜひご覧ください!

前回の投稿

前回はお城の堀と土塁について解説しました!

特に堀について知っておくと、それぞれの城の特徴や魅力がより分かるようになり、今まで以上に城巡りが楽しめるようになります!

気になる方はぜひご覧ください<(_ _)>

【図解】お城の「堀」と「土塁」について分かりやすく解説 
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