
山中城の戦いってなに?

そもそもなんで戦いが起こったの?
*この記事では、このような悩みを解決するために作成しました

皆さんこんにちわ!
お城マニアのりょーすけです!
今回は「山中城の戦い」をテーマに投稿してみました。
山中城にはどんな防御機能があり、なぜ戦いが起こったのかを解説しているので、少しでも皆さんのお役に立てれたら幸いです。
それではいざ、参る!
九州・四国を平定した豊臣秀吉は、一向に降伏しない関東の覇者、北条氏を成敗するために小田原へ進軍した。
山中城の戦い
山中城の戦いとは、豊臣軍の大将である羽柴秀次(はしばひでつぐ)と、北条氏が支配する山中城の城主、松田康長(まつだやすなが)による攻城戦だ。
激戦の末、わずか半日で落城した。
この戦いは北条氏の士気を大きく削ぎ、秀吉の天下統一に向けた重要な一歩となった。
*羽柴秀次=秀吉の養子。秀吉の姉である瑞竜院日秀尼(ずいりゅういんにっしゅうに)の長男。
戦いの背景
豊臣秀吉が小田原に進軍するとき、東海道を通って箱根峠を越えなければならない。
そして、北条方の山中城は東海道が箱根峠に達する手前に築城されているため、必ず通らなければならない関門だった。
逆に、北条にとって、この山中城が突破されると秀吉の軍が本拠地である小田原に侵入してしまうため、なにが何でも死守したい城だった。
そのため、北条側は北条氏勝や間宮康俊といったベテラン武将を山中城へ援軍として送っている。
さらに、北条は秀吉の進軍に備え、山中城の増強を早くから行っていた。
山中城には玉縄城主の北条氏勝(うじかつ)と間宮康俊(まみややすとし)が援軍として入城していた。
北条氏勝は北条一族の中では名門であり、かなりの精鋭部隊が派遣されたことになる
また、ともに派遣された間宮康俊と山中城の城主である松田康長には「康」という同じ漢字が使われている。
これは北条氏の三代目の盟主であった北条氏康(うじやす)の名が授けられていることから、信頼がおけるベテラン家臣であったと言われている。
山中城の特徴
今回の攻城戦に備え、山中城に障子掘りや畝掘り、岱崎出丸(だいざきでまる)などの防御施設を増築していた。
この岱崎出丸は街道に沿うように築城され、街道から攻めあがる敵の側面を攻撃できるようになっていた。
岱崎出丸の守備隊長は、援将として参戦した間宮康俊が任せられた。
豊臣軍の布陣
まず、秀吉本人は長久保城に布陣した。
この時すでに長久保城は廃城となっていたが、土塁や石垣が残っており、ある程度の防御機能は備わっていた。
これは、北条軍の襲撃を警戒してのことだ。
山中城では、秀吉子飼いの中村一氏(なかむらかずうじ)が岱崎出丸を、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が南櫓の攻略にあたる。
また、徳川家康の配下である本田忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)が西櫓を攻める布陣となった。
開戦
開戦と同時に両軍の攻防戦が勃発。
すると、南櫓の正面突破を試みた一柳直末が突入直後に戦死してしまう。
また、渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ)を先鋒とする中村隊は岱崎出丸の占領に成功したものの、南櫓を攻略するほどの余力が残っていなかった。
そこからしばらく膠着状態が続いたが、西櫓の攻略を進めていた本田忠勝と榊原康政が西櫓、西の丸を攻略し、北条方の形成が不利になった。
すると、松田康長は後方の玉縄城防備の役割を担う北条氏勝を脱出させたのだ。
氏勝が脱出したことで城内に動揺が広がり、三の丸の抵抗が弱まった。
その機を逃さず、渡辺勘兵衛を含む中村隊は一気に三の丸から本丸までなだれ込み、 松田康長は打ち取られ、約半日で山中城は落城したのだ。
戦いの影響
豊臣秀吉は、力攻めによる短期決戦で自軍の圧倒的な軍事力を誇示。
山中城の落城は、北条氏の士気を大きく削ぎ、小田原征伐の流れを決定づけました。
投稿者から一言、、、

最後まで読んでいただきありがとうございます!
今回の記事は「戦いの流れ」だけでなく「北条氏の名前の由来」などの補足情報も盛り込んでみました。
少しでも皆さんが歴史に興味をもっていただけたら幸いですし、城仲間が増えてくれたらなお嬉しいです(笑)
今後も戦国史やお城をテーマに投稿していくので、よろしくお願いします♧
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