織田信長って楽市楽座以外に何をしたの?
信長の経済政策についてもっと詳しく知りたい
この記事はそんな方に向けて書いています☘
こんにちは! 経済学部、経済学科専攻のりょーすけです!
最近、年末に福岡のお城を攻める(観光)するためにバイトに明け暮れています(笑)
今回は戦国武将を代表する織田信長の経済政策について解説します。
大学で習得したマクロ経済学をふんだんに使い、信長の経済政策をより専門的に分析しました。
もし、あなたの知識が「織田信長=楽市楽座」で止まっているとしたら必見です!
日本を代表する戦国武将なので、信長についてもう少し知識があってもいいと思います。
ちなみに、普段は城マニアとして記事を投稿しているので、気なる方はぜひ下記のURLへ!
それではいざ、参る。
*中学生でも理解できるように、難しい用語はできるだけ避けて解説していますので安心してお読みください。
織田信長の経済政策(撰銭令:えりぜにれい)
戦国時代は極度のデフレ状態でした。
なぜなら、明(読み方:みん。現在の中国)からの銅銭(お金)の輸入量が激減していたからです。
当時の日本は自国で通貨を作る高度な技術を持っていませんでした。
そのため、明から輸入した銅銭を用いて、商品の取引を行っていました。
しかし、明で銅が産出できなくなり、明からの銅銭の輸入量が減ってしまったのです。
すると世の中(市場)に出回る通貨(お金)の量が減るため、自然と国民の所得も減少し貧しくなります。
貧しくなった国民は、買い物をしなくなります。すると物が売れなくなり、商人も貧しくなります。貧しくなった商人は買い物をしなくなります。
このように、通貨量が減ることで引き起こされる状態を「デフレ(デフレーション)」と言います。
現在だったら、日銀(日本銀行)が市場に出回る通貨量を増やすために、金利を下げるなどの金融緩和政策を行います。
しかし戦国時代には、市場の通貨量をコントロールできる日銀のような機関がなく、デフレ状態から抜け出せませんでした。
そんな「貨幣(お金)不足」を打破するために、なんとか通貨量を増やそうと、信長は「撰銭令(えりぜにれい)」を発布します
ひとつずつ見ていきましょう
高額取引における金・銀の使用許可
戦国時代では、金や銀はお金としての役割を持っておらず、贈答品や商品として使われていました。
そこで、金や銀も貨幣としての役割を持たせようとしたのです。
良銭と悪銭の公認交換レートの設定
つまりは、質のいいお金と質の悪いお金を交換できるようにしたのです。
悪銭とは鐚銭(びたせん)とも言われ、形が歪んでいたり、さびれた貨幣のことを指します。
戦国時代では、商人が悪銭での支払いを拒否するようになり、使用できなくなった貨幣が増加しました。
現在では日銀が新しいお金を発行して、質の悪いお金と交換してくれますが、当時に日銀はありません。
そこで信長は使えなくなった悪銭をもう一度使えるように、数枚の悪銭で一枚の良銭と交換できる仕組みを作ったのです。
米での売買の禁止
米での売買の禁止とは、物を買う際にお米をお金の代わりとして使うことを禁止することです。
そこであなたは次のように思いませんでしたか?
市場の貨幣量が少ないなら、米をお金代わりとして使ってもいいのでは?
もし、米による売買が浸透すると、物価が安定しにくくなります。なぜなら、米の収穫高によって物価が決まるからです。
例えば、今年は去年の倍近くお米が収穫できたとすると、去年と同じ価格の商品でも安く感じますよね。
逆に去年の半分しかお米が収穫できなかったとすると、去年と同じ価格の商品が高く感じますよね。
このように米による売買が浸透してしまうと、その年の米の収穫量に市場が振り回されてしまいます。
また、米での売買(物品貨幣)だと物の取引(物流)が抑制されてしまいます。
例えば、お店でカッコイイ靴があり、定員にいくらかたずねました。
すると定員は言いました「お米30キロ分です!」
買えるわけないですよね
ふつう、30キロの米を抱えてイオンで買い物しますか?(笑)
これは当時も同じです。
お米だと持ち運びが大変なので、商売が活発に行われません。
以上の理由から、信長は米による売買を禁止させました。
しかし、信長の経済政策は失敗に終わります。
①での「高額取引における金・銀の使用許可」ですが、そもそも金と銀の産出量が不十分であったため、効果はいまいちでした。
②での「良銭と悪銭の公認交換レートの設定」では、まず良銭の判断基準が明確ではなかったことが失敗の原因です。
少し欠けている貨幣は良銭と悪銭のどちらに分類されるのか、その判断基準が曖昧だったので効果はあまりありませんでした。
また、地域によって良銭と悪銭の交換レート(交換基準)が異なっていたため、貨幣経済に混乱をもたらしました。
例えば、Aの地域では「悪銭3枚=良銭1枚」で交換できていました。そこで撰銭令によって「悪銭5枚=良銭1枚と交換」という交換レートが設定されると、A地域の悪銭の価値が下がることになります。
それによって地域経済に混乱が生じました。
③の「米での売買の禁止」ですが、これ自体は悪くありませんでした。ただ、「米での売買の禁止」を実行できるだけの貨幣が市場に流通しておらず、効果はありませんでした。
米での売買の禁止は「米に代わる貨幣の増加」を前提としています。
だから信長は、金と銀を貨幣として使おうとしたり、悪銭も使えるようにして貨幣の増加を目指しましたが、どちらも失敗に終わったため、米での売買の禁止も成果を上げられませんでした。
貨幣量と生産量の関係
貨幣量が増えると生産量が増える。
これは「IS – MP曲線」で証明されます。
「IS – MP曲線」とは、市場での通貨量が増大することで、GDPが増加することを示します。
GDPは三面等価なので、生産、支出(消費と投資)、分配(所得)の3つが増加します。
戦国時代の後半になると、広大な土地と莫大な経済力をもつ大名が出現し始めます。
すると、合戦や築城の規模はますます大きくなり、物の移動(物流)は増え、モノの生産量も増加します。
すると、大量の貨幣が使われます。
そのため、当時は通貨の超過需要状態(お金が欲しくてたまらない状態)だったのです。
もし信長が「撰銭令」により貨幣量の増加を成し遂げていれば、デフレ状態から脱却し、過去最大の経済大国へと変貌していたかもしれません。
投稿者から一言
最後まで読んでいただきありがとうございます。
内容はすんなり理解できたでしょうか?
今回の記事が少しでも皆さんの教養の手助けになると同時に、戦国時代に興味を持っていただけると幸いです。次の投稿でもよろしくお願いいたします。
次回は豊臣秀吉の朝鮮出兵を地政学の視点から解説しました!
秀吉はなぜ朝鮮出兵を行い、なぜ失敗したのか、学校では習わなかった新情報が満載!
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