[豊臣秀吉VS北条氏政]山中城の戦いを分かりやすく解説!

山中城の戦いってなに?

そもそもなんで戦いが起こったの?

*この記事では、このような悩みを解決するために作成しました

皆さんこんにちわ!

お城マニアのりょーすけです!

 

無事に単位を取得でき、待ちに待った春休み!                            好きなだけ歴史の本を読めるのですごく幸せです(笑)

 

今回は「山中城の戦い」をテーマに投稿してみました。

 

山中城にはどんな防御機能があり、なぜ戦いが起こったのかを解説しているので、少しでも皆さんのお役に立てれたら幸いです。

 

それではいざ、参る!

前回は秀吉の朝鮮出兵を「地政学」という今までにない観点から解説したので、気になる方はぜひご覧ください。                                                               http://: https://muromati1392.com/letter-21/ ‎

九州・四国を平定した豊臣秀吉は、一向に降伏しない関東の覇者、北条氏を成敗するために小田原へ進軍した。

山中城の戦い

山中城の戦いとは、豊臣軍の大将である羽柴秀次(はしばひでつぐ)と、北条氏が支配する山中城の城主、松田康長(まつだやすなが)による攻城戦だ。

羽柴秀次(兵力:40,000)vs 松田康長(兵力:4,000)

*羽柴秀次=秀吉の姉である瑞竜院日秀尼(ずいりゅういんにっしゅうに)の長男であり、秀吉の養子

山中城には玉縄城主の北条氏勝(うじかつ)間宮康俊(まみややすとし)が援軍として入城していた。

北条氏勝は北条一族の中では名門であり、かなりの精鋭部隊が派遣されたことになる

また、ともに派遣された間宮と山中城の城主である松田には「康」という同じ漢字が使われている。

これは北条氏の三代目の盟主であった北条氏(うじやす)の名が授けられていることから、信頼がおけるベテラン家臣であったと言われている。

北条氏の本当の名前は「伊勢氏」だった⁉
北条氏の初代当主は北条早雲(そううん)ですよね
しかし、早雲の本当の名前は伊勢宗瑞(いせそうずい)でした
北条氏が「北条」と名乗りだしたのは二代目当主の北条氏綱(うじつな)の頃からです。
では、なぜ伊勢から北条と名乗るようになったのか
鎌倉幕府の執権として権威を振るい始めた北条時政(ときまさ)
*執権=将軍の補佐役。政治などを行う
時政の執権政治は17代まで続き、長きにわたって政治的支配を行ってきました
このことから、二代目氏綱は「北条」と名乗ることで、鎌倉時代の北条氏に続く関東の支配者であることを誇示するためだったと言われています
つまり、鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏は別の家柄ということです
*ちなみに、鎌倉時代の北条氏と区別するために、戦国時代の北条氏は「後北条」とも言われています。

そもそもなぜ、山中城で戦うことになったのか

豊臣秀吉が小田原に進軍するとき、東海道を通って箱根峠を越えなければならない。

そして、北条方の山中城は東海道が箱根峠に達する手前に築城されているため、必ず通らなければならない関門だからだ。

地政学ではこの関門を「チョークポイント」と言う。

逆に、北条にとって、この山中城が突破されると秀吉の軍が本拠地である小田原に侵入してしまうため、なにが何でも死守したい城だった。

だからこそ、北条氏勝間宮康俊といったベテラン武将を援軍として送っている。

さらに、北条は秀吉の進軍に備え、山中城の増強を早くから行っていた。

山中城の特徴

①城内に東海道を抱え込むような縄張り(=構造)

②両側に谷があり、山の尾根上に築城されている

よって、秀吉軍は軍を広く展開することができないため、縦に長い隊列を組まなければならなかった。

③北条氏の築城技術が結集していた

今回の攻城戦に備え、山中城に障子掘りや畝掘り、岱崎出丸(だいざきでまる)などの防御施設を増築していた。

出丸とは、城郭からはみ出すように配置され、最前線の防御施設として機能していた。 攻城軍からの防御と自軍の出撃の拠点としての役割がある。                          代表的な出丸として、大坂の陣で真田幸村が増築した「真田丸」が挙げられる。

この岱崎出丸は街道に沿うように築城され、街道から攻めあがる敵の側面を攻撃できるようになっていた。

岱崎出丸の守備隊長は、援将として参戦した間宮康俊が任せられた。

堀ってどんな意味があるの?

A.城全体や曲輪の周辺を囲むことで、敵からの侵入を防いでいた

堀には空堀水堀があり、堀底の形によって

「薬研堀(やけんぼり)」「片薬研堀」「箱掘」「毛抜掘」

といった種類がある

山城では主に空堀が多用され、薬研堀や片薬研堀が造られていた

山城で水堀が造られないのは、山へ水を引くことが困難であるからだ

それに、平城に比べると山城は水源が極めて少ないため、防御として使うよりも兵士の補給として使うことを優先していた

また、薬研堀片薬研堀は箱堀や毛抜堀に比べると、防御力は高いことで知られる

なぜなら、薬研堀と片薬研堀は堀底が狭いことから、堀に落ちた敵兵は身動きがとりにくく、城兵は弓や鉄砲で狙いやすかったからだ

一方の水堀は平城や平山城で多用され、箱堀や毛抜堀が造られていた

平城などで水堀が多用されていたのは、平地で深い堀を造ると水が湧き出てしまうからだ

すると、堀底が尖って防御力が高い薬研堀などの堀底が崩れ、どうしても堀底がなだらかになってしまう

そうなると、水堀にしてしまった方が防御力が高くなるため、平城や平山城では水堀が多く使われている。

よって、お城の堀については

山城=空堀(薬研堀・片薬研堀)
平城・平山城=水堀(箱堀・毛抜堀)

の法則が成り立つ

攻城軍(秀吉側)の布陣

まず、秀吉本人は長久保城に布陣した。

この時すでに長久保城は廃城となっていたが、土塁や石垣が残っており、ある程度の防御機能は備わっていた。

これは、北条軍の襲撃を警戒してのことだ

山中城では、秀吉子飼いの中村一氏(なかむらかずうじ)が岱崎出丸を、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が南櫓の攻略にあたる。

また、徳川家康の配下である本田忠勝(ほんだただかつ)榊原康政(さかきばらやすまさ)が西櫓を攻める布陣となった。

山中城の戦い、開戦

開戦と同時に両軍の攻防戦が勃発。

すると、南櫓の正面突破を試みた一柳直末が突入直後に戦死してしまう。

また、渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ)を先鋒とする中村隊は岱崎出丸の占領に成功したものの、南櫓を攻略するほどの余力が残っていなかった。

そこからしばらく膠着状態が続いたが、西櫓の攻略を進めていた本田忠勝榊原康政が西櫓、西の丸を攻略し、北条方の形成が不利になった。

すると、松田康長は後方の玉縄城防備の役割を担う北条氏勝を脱出させたのだ。

氏勝が脱出したことで城内に動揺が広がり、三の丸の抵抗が弱まった。

その機を逃さず、渡辺勘兵衛を含む中村隊は一気に三の丸から本丸までなだれ込み、                      松田康長は打ち取られ、約半日で山中城は落城したのだ。

投稿者から一言、、、

 

最後まで読んでいただきありがとうございます!

 

今回の記事は「戦いの流れ」だけでなく「北条氏の名前の由来」「堀の種類」といった補足情報も盛り込んでみました。

 

少しでも皆さんが歴史に興味をもっていただけたら幸いですし、城仲間が増えてくれたらなお嬉しいです(笑)

 

今後も戦国史やお城をテーマに投稿していくので、よろしくお願いします♧

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