なんで豊臣秀吉は朝鮮出兵をしたの?
朝鮮出兵はなぜ失敗したの?
*この記事はこのような疑問を解決してもらうために作りました
皆さんこんにちわ!
歴オタ大学生のりょーすけです!
つい最近、さっぽろ雪まつりに行ってきたのですがあまりの寒さに風邪を引いてしまいました(笑)
もし雪まつりに行かれるようでしたら甲冑(かっちゅう)ぐらい服を着込んで行くことをオススメします!
さて、今回は豊臣秀吉がなぜ朝鮮出兵を行い、なぜ失敗したのかを「地政学」の観点から解説していきます。
地政学とは、国際政治を地理的条件から考察する学問です。 つまり「地政学=政治×地理」で構成されています。
今回の記事を読むことで、地政学という新しい視点から歴史を考察することができ、より深く歴史を理解できればと思います。
それではいざ、参る!
一問一答でささっとおさらい!
北条氏や島津氏を屈服させ、ついに豊臣秀吉は天下を統一した。
しかし、秀吉にとって天下統一は中間目標でしかなく、すでに朝鮮出兵を見据えていた。
*朝鮮出兵は文禄・慶長の役とも言われ、1592年~1598年に起こった戦い
A.朝鮮が日本の味方にならなかったから
秀吉の本来の目的は「明(中国)の征服」であったため、朝鮮には明までの道案内や物資の補給を要求していた。
しかし、朝鮮は日本側の要求を拒否したため、まずは朝鮮を支配下におこうと考えたからだ。
A① 領土を拡大したかったから
秀吉が日本を統一した頃、イギリスやスペインといった諸外国は植民地化を進めていた。
そこで秀吉は「日本も外国の植民地にされるのではないか」と危機感を抱き、諸外国に対抗できるために領土を拡大したかったから。
A② 恩賞で与える土地を獲得するため
戦(いくさ)や政治で活躍した家臣には、大名から土地や位といった褒美を与えられていた。
しかし、秀吉は日本全土を手に入れたため、恩賞として家臣に与える土地が不足した。
だから秀吉は広大な土地をもつ明を征服しようと考えたと言われている。
A③ 明の高価な壺(つぼ)の利権を獲得するため
以上の理由から秀吉は朝鮮出兵を行ったと言われている。
しかし、皆さんがご存じの通り二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を断行したにもかかわらず、明の征服どころか朝鮮すら支配下におくことができなかった。
そして、この朝鮮出兵は西国の大名が中心に派兵されたため、後の「関ヶ原の戦い」や「大阪の陣」で豊臣方の主力となる西国の大名が疲弊し、豊臣の滅亡へとつながった。
明ではなくマニラを攻めるべきだった
秀吉は領土の拡大や貿易の利権を獲得するために明の征服を望んだ。 しかし、それなら明ではなくマニラを攻めるべきだったと言われている。
この頃の日本は、石見銀山をはじめとする世界有数の銀の産出国で、世界の銀の1/3を占めていた。
そのため、貿易では銀が輸出資源として重宝され、国の財源を支えていた。
一方で、アメリカ大陸でも銀が産出されており、アメリカ大陸の銀はマニラを通ってマカオへ入り、明へ流通していた。
そのため、マニラを押さえアメリカ大陸からの銀を封鎖してしまえば、日本の銀の希少性は揺るぎないものになっていた。
さらに、マニラを支配していたスペインは、イギリスとの英仏海峡での戦争で敗北して以降、国力が低下した。
そのため、九州から沖縄、台湾と軍を進めマニラを征服したほうが、明を征服するよりも可能性は高かったと言われている。
このことを秀吉が知らなかったわけではない。
茶人で秀吉の側近でもある長谷川宗仁(そうにん)はマニラの現状を把握しており、マニラを直接叩くべきと秀吉に進言していたのだ。
ではなぜ秀吉は明の征服を断行したのか。 それはプロダクトアウトな戦略を採っていたからだ。
プロダクトアウトはビジネス用語として使われており、その会社の強みを生かした商品を生産するマーケティング戦略だ。
例えば、鍛造技術が優れているから家庭用包丁を生産するなどが挙げられる。
秀吉の場合、鉄砲歩兵を中心とした陸上兵力が日本軍としての強みだったため、陸上兵力という強みを生かすためには明の征服が最適だと考えたのだろう。
一方のマニラ征服では、九州から沖縄、沖縄から台湾、台湾からマニラと島を渡りながら進軍するため膨大な水軍が必要だった。
しかも、マニラは島国であるため、マニラ制圧後も日本や明、東南アジア諸国との海上交易や防衛体制で水軍が必要不可欠であった。
だからこそ、秀吉は明への征服を選んだのかもしれない。
しかし、地政学的な観点からみると、秀吉の明への征服はやはり失敗だったと考えられる。
ランドパワーとシーパワー
地政学の基礎的な概念に「ランドパワー」と「シーパワー」というものがある。
ランドパワーとはユーラシア大陸にある大陸国家で、ロシアやフランス、ドイツなどが分類され、アジアではあるが中国もランドパワーに該当する。
ランドパワーの特徴として、まず陸上戦力をもち、道路や鉄道といった陸上輸送能力に優れている。
一方のシーパワーとは国境の多くを海に囲まれた海洋国家のことで、日本やイギリス、台湾などが分類される。
シーパワーの特徴として、海洋に出る船の他、造船場や港湾施設などをもつ。
そして、地政学の歴史からすると「ランドパワーとシーパワーは両立することはできない」と言われている。
これはアメリカの海軍大学校の教官だったアルフレッド・セイヤー・マハンが著述した「海上権力史論」でも言われていることだ。
例えば、ランドパワーだったローマ帝国は海洋進出をしたことで国力が低下し、崩壊。
また、日本の敗戦もシーパワー国家である日本が太平洋の支配に加え、中国内陸部へ進出を目論み、シーパワーとの両立を目指して失敗した。
つまり、秀吉は日本軍の強みである陸上兵力を生かすために明に向けて進軍した。
しかし、日本は昔からシーパワー国家であり、海上交通で発展してきた国であるため、明への進出はランドパワーとシーパワーの両立を意味する。
したがって、財力や軍事力といった国力が分割され、十分な戦力を朝鮮へ送ることができず失敗したと考えられる。
僕から一言、、、
最後までご覧いただきありがとうございます。
地政学という視点から歴史を考察するのも面白くないですか?(笑)
また、今回の記事で秀吉が行った朝鮮出兵について深く理解するとともに、少しでも歴史に興味をもっていただけると、僕はすごく嬉しいしやりがいを感じます。
これからも歴史に関する投稿を続けていくので、暇なときにぶらっと立ち寄っていただけると幸いです。
今後ともよろしくお願いします♧
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