鳥取県のおススメのお城を知りたい
景色が良い場所を探している
この記事はそんな方に向けて書いています。 (2023年度版)
こんにちは! お城大好き大学生、りょーすけです!
最近やっと車の免許を取ったので、城巡り旅行を計画中です(笑) さて、今回は鳥取県のお城をご紹介します。
行ったことがあるからこそ分かる、それぞれのお城の見どころやおススメの時期を紹介します。
この記事が皆様の素敵な思い出作りの手助けになれば幸いです。それではいざ、参る。
【鳥取城跡】
別名:久松城(ひさまつじょう)・久松山城(ひさまつやまのしろ)
アクセス
車:約15分 バス:約25分(運賃=170円) 歩き:約33分
見どころ・楽しみ方
「さくっと登れる山を探している」
「眺めがいい場所を知りたい」
そんな方にピッタリなのが鳥取城跡です! なぜなら、鳥取城跡は標高263mの久松山という山に築かれたお城で、麓(ふもと)から山頂(本丸)まで登ることが出来るからです。
麓から山頂までの往復が約70分ほど。 山頂からの景色は格別で、鳥取砂丘とその先の日本海まで見渡せます!
また、さくら名所百選にも選ばれており、春になると沢山の桜が鳥取城を包み込みます。 桜の時期は3月下旬から4月上旬ごろです。 詳細は「全国お花見ガイド」でご確認ください。
歴史
築城年:1555年に山名氏によって築城。その後、池田長吉(いけだ・ながよし)によって拡張。
鳥取城の戦い
天下統一を目指す織田信長。
中国地方を治める毛利氏を倒すべく、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を中国方面の総指揮官に任命した。
羽柴秀吉は2万の大軍を率いて、毛利氏が治める鳥取城へ進軍。
鳥取城の城主、山名豊国(やまな・とよくに)は秀吉の勧誘工作により毛利氏を裏切りる。
城主不在となった鳥取城には、400人の家臣を率いた吉川経家(きっかわ・つねいえ)が新たな城主として入城。そして経家は
と予想した。
なぜなら、鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)という山に築かれた山城で、守りが堅く、力攻めで攻め落とすのは困難であったからだ。
毛利軍の勝算としては、冬が到来する12月まで持ちこたえれば、秀吉は包囲できなくなり、撤退するというものである。
さっそく籠城戦の準備に取り掛かった毛利軍だが、籠城戦で最も重要な兵糧(ひょうろう:お米)を十分に集められなかった。
これこそ秀吉の策略によるものだったからだ。
秀吉はまず、鳥取城周辺の米を通常の2倍の価格で買い占める。
さらに、周辺の村を焼き尽くし、住民を鳥取城へと向かわせた。
すると、鳥取城内の人数は1400人から4000人へと3倍近く増加。
兵糧が少ないうえに城内の人数が増加したため、毛利軍の圧倒的な不利な状況で戦いは幕を開けた。
そこであなたは
なんで他のお城から援軍が来ないの?
と思うでしょう
結論から言うと、それは不可能だったからです。
理由は主に2つ。
段々と兵糧が減っていく鳥取城。
最初は城内にある草や木の葉を食べていたが、それが無くなると牛や戦で使う馬までも食べるようになった。
さらに、やせ衰えた男女が柵にしがみついて
「出してくれ!」
と叫ぶと、それを秀吉軍は鉄砲で狙撃。
すると、周りにいた城兵たちがいっせいに飛び掛かり、まだ息があるうちに食べたと言われている。
このようなありさまから、鳥取城の兵糧攻めは「渇(かつ)え殺し」と言われている
1581年、10月25日。
城主の吉川経家は降伏を決断。
自身の命と引き換えに城兵を助けてほしいと秀吉に申し出た。
そして経家は家臣とともに自刃し、鳥取城は落城。
約半年に及ぶ兵糧攻めは羽柴秀吉の勝利で幕を閉じたのだ。
城兵らは助命されたが、彼らにさらなる悲運が待ち受けていた。
秀吉の軍から粥(かゆ)が与えられたが、城兵たちはそれを消化する機能さえ失っていた。
中には、一度に多食してその場で死んでしまった者もいたという。
【米子城跡(よなごじょうあと)】
別名:久米城(くめじょう)・湊山城(みなとやまじょう)
天守(非現存):望楼型(ぼうろうがた)の連結式 城郭:平山城(水城:みずき)の梯郭式
アクセス
見どころ・楽しみ方
「綺麗な夕日を見たい」
「360°見渡せる場所を探している」
そんな方にピッタリなのが米子城跡です!
なぜなら、米子城跡は海に面している湊山という山に築かれた山城で、空も海も山も街も一望できるからです。
天気が良ければ、日本百名山に選ばれている大山(だいせん)も見ることが出来ます。
特に、日の出と大山が重なる「ダイヤモンド大山」は神秘的!
歴史
築城年:1602年に中村一忠(なかむら・かずただ)が完成させる。
海の近くにお城を築くメリットは?
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