【武将の教養】九州の武将「大友・龍造寺・島津」三英傑について分かりやすく解説!

こんにちわ!

「お城デート♡」推奨家&評論家のりょーすけです!

突然ですが、九州の三英傑って誰のことか分かりますか?

あくまで僕の意見ですが九州の武将ってあまりライトアップされていない気がします、、、

なので今回はお城ではなく九州の三英傑について簡単に解説しました!

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それではさっそく本題へ出陣!🐴

大友宗麟(おおともそうりん)

キリシタン大名という異名をもつ九州の覇者、大友宗麟

彼は一切キリスト教に関心はなく、ポルトガルとの南蛮貿易から得られる莫大な富が狙いだった

ポルトガルとの貿易以前から、大友氏は明や朝鮮とも交易をしており、貿易で国力を高めていたのだ

本来であれば、宗麟は大友氏の長男であったため、すんなり家督が譲られるはずが、父が末っ子の塩市丸(しおいちまる)に家督を譲ろうとしていた

それがきっかけで家臣団の中で派閥抗争が起こり「二階崩れの変」によって家督は宗麟に引き継がれた

その後、着実に北九州の勢力を拡大させ、守護職九州探題の称号を得た

しかし、島津軍との「高城・耳川の戦い」で大敗してからは徐々に衰退することとなり、3強の座から降りることになった

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

大内義隆を主君にもつ龍造寺氏

龍造寺隆信は7歳で出家し、家督相続から退いていた

しかし、近隣の少弐氏(しょうにし)により一族の多くが謀殺され、20歳で龍造寺氏の頭領となった

ちなみに、隆信の「隆」は大内義隆からもらったものだ

陶晴賢(すえはるたか)によって大内義隆は倒されたが、毛利元就(もうりもとなり)によって陶晴賢は滅ぼされた

その後、龍造寺隆信は毛利元就と同盟を組み、仇敵の少弐氏を滅ぼした

その後、大友宗麟による侵略があったが、重臣の鍋島信昌(なべしまのぶまさ)と共に夜襲をかけて圧勝

大友宗麟と有利な条件で和睦を結んだ後、勢いに乗った隆信は勢力を拡大し「九州の3強」の座に上り詰めた

しかし、1584年に

「沖田畷(おきなわて)の戦いで」

島津義久が得意とする「釣りの野伏」の戦術により命を落とした

釣り野伏

(龍造寺軍)2万5000

vs

(島津・有馬連合軍)8千

島津軍の先鋒隊と龍造寺軍が激突し、数で劣る島津軍は早々に敗走

龍造寺軍は追い打ちをかけるがこれが罠だった

畷(なわて)とは田んぼのあぜ道のことで、道が狭い上に一面が湿地帯であったことから龍造寺軍は渋滞していた

そこで待ち構えていた有馬・島津連合軍による総攻撃を加えられ、龍造寺軍は壊滅

この戦いで隆信は首を取られた

島津義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)

島津義久(兄)・義弘(弟)は龍造寺大友を差し置いて九州の覇者へと君臨

九州統一まであと一歩のところで豊臣秀吉の討伐にあい、大きく南に押し返された

義久の弟の義弘は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と言われ恐れられた

*「石曼子」とは中国語で、日本語では「島津」を指す

捕虜として多くの陶工や養蜂家を連行し、自国の殖産興業を発展させた

*陶工(とうこう)=陶磁器を作る人

*養蜂家(ようほうか)=ハチを飼育し、はちみつをとる人

また、島津義弘といえば「関ヶ原の戦い」での「島津の退き口」が有名である

兵数1500の島津軍は、両軍が交戦状態に入っても参戦せず傍観(ぼうかん)していた

東軍に押され石田三成(いしだみつなり)と小西行長(こにしゆきなが)が伊吹山方向へ敗走し始め、ようやく全軍で敵の正面突破をして戦線離脱をした

敵の意表を突く作戦(島津の退き口)ではあったが、井伊直政(いいなおまさ)の追撃を受け、自国へ帰った頃には1500だった兵がわずか80人程であったという

今回も僕の記事を読んで頂きありがとうございます🍀

戦国武将ではありませんが

平清盛の死

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だったということを知っていましたか?

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